二荒山神社の歴史
二荒山神社の歴史について(二つ下の書き込み)
二荒山神社は、明治に至るまで新宮(現在本社)と滝尾神社、本宮神社を合せて、日光三社と呼ばれていました。
新宮 大己貴命 (おおなむちのみこと) 男体山
滝尾 田心姫命 (たごりひめのみこと) 女峰山
本宮 味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと) 太郎山
二荒山とは男体山の古名で、二荒山神社の御神体山です。
二荒山は後世、日光山と改められてより、日光三社の称が起こりました。
輪王寺は二荒山神社の神宮寺(神社の境内の寺院を云う)であり、神領も寺領も同じであり、当然二荒山神社(日光三社)も、天正18年小田原の役(豊臣秀吉の北条攻め)の折、所領を没収せられ、徳川家康により旧領を安堵されるまでは、困難を極めた事が知られます。
元和3年に東照宮が祀られ、二荒山神社の社家(神主)その他が東照宮も兼務することとなり、明治維新に致りました。
将軍社参の折、必ず神橋(みはし・日光の玄関口に架かる朱塗りの橋)を渡って参詣を致しました。
当然、日光山は一体として信仰されており、幕末の大鳥圭介他幕府軍の来襲の際には、もし管軍総攻撃あらば、当社も灰塵に帰したと思われます。
幸いにして、両軍戦火を交えず幕兵の退去により、日光の建造物群は貴重な文化財として残り現在にいたっています。
日光二荒山神社
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