弘法大師との関係についてへの回答です。
こんにちは。『日光山碑』及び日光と弘法大師との関係については以下の2点を参考になさってください。

@空海と勝道上人

僧空海は延暦23年(840)僧最澄と共に入唐しました。
翌24年、最澄は天台宗を開き、空海は大同元年(806)8月帰朝し真言宗を伝えました。
これより先、天應2年春3月に勝道上人は、男体山(二荒山)を登頂して山頂に三神を祀りました。
このことは、空海の遺稿を載せた『性霊集』に「沙門勝道山水を歴りて玄珠を瑩く碑並序」によって知ることができます。
この碑が「沙門遍照金剛文并書」とあることによって空海の文及書であることがわかります。ちなみに遍照金剛とは空海の灌頂名です。

この『日光山碑』は勝道上人が二荒山(男体山)を開山したことを世に知らしめた最初の文として認識され、書かれたのは弘仁5年(814)となっていますが、男体山開山の32年後のことです。
弘仁7年(816)空海は高野山に金剛峯寺を創建します。
そして、弘仁8年(817)勝道上人入寂。
一方、空海は承和2年(835)3月に入寂し、延喜20年(921)弘法大師の諡号を贈られました。

A日光と空海(弘法大師)との係わり

 因みに日光は天台宗(二荒山神社と同じ山内にある日光山輪王寺は天台宗のお寺です)であり、空海は真言宗です。
一見、日光と真言宗の開祖である空海はあまり関係のないように思いますが、日光二荒山神社境内には空海御手植えと伝えられる樹齢1千年を越す「高野槙」が現存します。
又、一番言及すべきは最澄・空海の開いた仏教は、山岳仏教として当時の仏教に新風をもたらしたことです。
 最澄は比叡山延暦寺に拠って天台宗を、空海は高野山の金剛峰寺で真言宗(密教に基づく)を開いたことを見ても、山中での修行を重んじた山岳仏教的な性格(これがやがて修験道を生む)がうかがえます。

 こうした密教僧達の山岳修行は古くからの山岳信仰と結びつき修験道(山岳修行による超自然力の獲得と、その力を用いて呪術宗教的な活動ことを旨とする実践的な儀礼中心の宗教)へ発展していきました。

 そして日光は霊峰男体山を核とした山岳信仰の霊場として起こり、やがて神仏習合の信仰が加わって発展してきました。

 すなはち、「日光」と「空海」を結ぶ鍵は『山岳信仰』と『修験道』にあると言えそうです。

 事実、男体山頂遺跡からは独鈷杵(とっこしょ)・三鈷杵(さんこしょ)・三鈷鐃(さんこにょう)・羯磨(かつま)等の密教法具(ほうぐ)が多数出土しています。これは、密教の修行僧も多数男体山に登り、修行をしたという証拠になりますね。
 *密教法具については奈良国立博物館監修の『密教法具』に詳しい解説が記載されていますので、参考になさってください。(男体山頂出土の法具も多数掲載されています)

 以上がご質問対する回答になります。

やはり、日光と弘法大師とをつなぐのは『山岳信仰』と『修験道』を追及してゆくことではないのでしょうか?

 それでは大学の研究、頑張ってください。
 
日光二荒山神社

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